2020年5月26日の生きづらさ
2020年5月26日
自分の今抱えている感情が生きづらさと言えると感じました。
何か普遍的なものを追い求めるものが学問であると「信じ」てきていて、ここにきてそうでないという価値観と出会う。
だけれど、考え方を一気に転換することはできなくて、個別性を重視する人々の中で、自分のことばの節々に「普遍性への志向」が見えてしまう。
自分の発信することがらが、周り人のカラフルなことばと比べて、唯一灰色で、くすんで、取り上げる価値のないものに見える。
物事の個別性・全体性を追い求める中で、固定的な見方として、推奨されない意見となる。
これまでも、しんどいな、つらいなと思うことは人並みにあったけれど、何かカテゴリ化された「生きづらさ」として認識したのははじめてかもしれません。
それは恐らく、「生きづらさ」に出会ってこなかったか、感じないような無意識の意識があったからかと思います。
人種、性などでもマイノリティにはならず、または「大学院生」のように一般的には権威性のあるマイノリティとして生きてきました。
それが、「学問」の「考え方」という、私にとっては生きる上で根幹にもなり得る部分に関して、自分がマイノリティである環境に身を置いています。
そこで、今、本当にいま思い付きで書いているんだけれど、人文学が人間の学問であり、何か生きづらさからの解放を謳っているのであれば、私の今感じている生きづらさも十分何かしらの分析対象にはなるのではないかと考えています。
きっと、今こうして生きづらさを感じている理由には、現在の状況だけでなくて、私の価値判断の置き方、成長過程におけるその価値判断の経緯など様々なことが関わっていると思います。
大きなコンテクストの中で、自分を相対化し、なぜ、いま、ここで生きづらいと感じるのか。
そして、その生きづらさから自分を解放するには、どのような考え方にもっていけばよいのか。またはどのような行動を起こせばよいのか。
今の苦しみ(おおげさかもしれないけれど)に加えて、これまで感じてきた何かしらの辛さは、どのように分析し得るか。
生きづらさに対して、何も感じないこと、無視することは今のわたしにはどうしてもできず、答えを求めてしまいます。
分析することで、そうした感情から自分を切り離し、客観化して問いに向かうことができれば良いでしょうか。